雑記です。
学生の頃だったかな。
あるいは卒業して数年後。
100分で名著という番組で、
フランクルの「夜と霧」という本を知った。
その中に、
「我々が何故生きるのか人生に問うのではない。
我々の方が何故生きるのかと人生に問われているのだ」
というような言葉があるとだけ覚えている。
何故生きるのか自分に問いかけても、
私は答えを見つけることが出来なかった。
これはもしかして、親が悲しむ以外に、
死なずに生きる理由なんてないんじゃないか。
自分、死んでもかまわないんじゃなかろうか。
そういう考えに陥ってしまった。
友人関係については、
今からすると、ずっと希薄なものだと思っていた。
私の見ていた世界ってそのくらい狭かった。
そうやってうつうつと過ごしていたある日、
今度は日曜美術館という番組を見ていた。
河井寛次郎という陶芸家が出てきた。
わりとテレビ見てたんだな。
その方が残した言葉に以下のようなものがあった。
「私は私を、形でしゃべる。
土でしゃべる、木でしゃべる。
木や石や鉄などでもしゃべる。
形はじっとしている歌。
飛んでいながらじっとしている鳥。
私はどんなものの中にもいる。
立ち止まってその声を聞く。
こんなものの中にもいたのか。
あんなものの中にもいたのか。
この世は自分を探しに来たところ。
この世は自分を見に来たところ」
表現というものは、
身体や言語だけでするものではない、
というような意味だと思う。
自分の内面だけじゃなく、
世界との繋がりを見に来たんだと私は解釈した。
生まれてきた意味が、ようやく分かった気がした。
ある意味、命の恩人なのだ。
陶芸のことはよく分からないけれど、
芸術に救われた瞬間だった。
自分やこの世界というものが、
とても暗く残酷に思われることもあったけれど、
それでもどうなってるか知りたくて見に来たんだ。
もっと早くこの事に気づいていたら。
そう思えるのは恵まれていたからかもしれない。
目を背けたくなるような、現実を生きている人もいる。
とりあえず、現実から目を背けるようなことは、
あまりしなくなった。生きる意味が少しわかった。
「こんなに苦しいのに、なんで生きてるんだろう」、
という負のスパイラルから気持ち抜け出して、
お陰で今は他の問題と向き合ういとまができた。
今週もどうかご無事で。